4「死生観」

 

 明日死ぬとしたら、あなたは今日という一日をどう過ごしますか?

 

 今日は生きると死ぬという事がテーマの記事です。受け手によっては、センシティブな内容にあたる為、気分を害したり、不快な想いをされぬ様に、ここでご閲覧を停止して頂きますようお願い申し上げます。

 

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 突然ですが、この数字の意味する物が分かる人は居ますか?

 

 これは、人間が生まれてから死ぬまでを寿命80年だと仮定して、一日平均睡眠時間8時間を引いて、一日の活動時間を16時間と仮定し、16h×365日=5840h

 

 5840h(一年で私達が使える時間ー個人差は大分あると思いますがー)×80年をした数字です。

 

 私が、今まで見て来たWEBサイトや、ブログの記事等では、この数字に触れている物はありませんでした。

 

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 「しか」生きられない。

 「も」生きれる。

 

 これは個人の価値観によって、大きく左右される物だと思います。私は前者です。

 

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  時間しか生きられない。その時間をどう使おうと個人の自由です。

 ですが、時間が「有限」だと心の底から感じた時、あなたは、まだ

 「も」生きられると本当に思いますか?

 

 私が、「死」に始めて触れた時は、小学校低学年だったと記憶しています。祖母が病魔に侵され60代という若さで、この世を去りました。

 

 入院先からの病院から、最期を看取った母から電話がありました。あまりの突然の知らせに、わあわあ泣いたのが記憶にあります。

 

 大好きだった、おばあちゃん。学校から帰って来ると、いつも其処に居てくれていた、おばあちゃん。時には叱ってくれ、時には抱擁してくれた、大切な、おばあちゃん。

 

 通夜や、葬式を終え一段落が着いた頃、私は仏壇の前で一心に祈りました。

 

「おばあちゃん、もう一回会いたいよ。おばあちゃん、もう一回笑ってみせてよ。おばあちゃん、おばあちゃん・・・」

 

 涙で前が見えなくなるまで泣き明かしました。でも、おばあちゃんは帰って来ませんでした。

 

 「ただいま」を言う相手が居なくなったという事実が、その簡単な事実が、人が死ぬ事なのだと私は、その時感じました。

 

 

 

 その他に、私の近親者で二名の方が「自殺」で命を絶っています。

 

 一人は、普段から仲が良かったご婦人です。

 一人は、同級生の兄弟です。

 

 どちらとも、時間の差はありましたが、交流があり「自殺」と言う悲しい知らせを聞いた時は、ショックでした。

 

 近しい人から聞いた話ですが、やはり各人がそれぞれ悩みや孤独を抱えていたという事実でした。

 

 おばあちゃんが死ぬだけでも、辛い想いをした私でしたが、ごくごく身近な、それも身内が自殺で死ぬなんて、家族からしたら、どれほどまでのショックでしょうか。大人になった今、それをつぐつぐ感じます。

 

 そして、私が始めて「死」を意識したのは35歳の秋でした。

 

 季節が冬へと変わろうとして来た時分、人間関係で悩んでいた私は、夕方近くにコンビニで大量のアルコールを買い込み、近くの駅で電車に乗りました。

 

 終点を過ぎ、ホームでタバコを吸ってる時、行き交う電車に目が眩みました。

 

 「この線路に飛び込んだら、どんなに楽になれるだろう?今までの辛い気持ちから解放されるのだろうか?」

 

 その場は、何とかしのぎましたが自宅に帰ってからアルコールの反動で、大きな鬱の波が来ました。毎日「死」を意識しました。

 

 横になって、布団にくるまりながらネットで「死」について漁りました。

 

 遺書も書き、毎日服用している睡眠薬を大量に準備し、後はアルコールを買い込んで、近くの崖に行くだけと言った中、数日が過ぎました。

 

 そんな中、電車へと飛び込み自殺を図った

 「りゅうき」さんと「minmin」さんの存在を知りました。調べれば調べる程、言葉にならない気持ちになりました。

  私は彼と彼女の「何者」でもありませんが、彼と彼女からしたら、私の悩み等、本当にちっぽけなものだと感じました。

 

 確かに、悩みは人それぞれです。大小様々です。他人からしたら、小さい事でも本人からしてみたら大きな悩みだったりします。

 

 そして私は、りゅうきさんminminさんから教わりました。命は時として儚いものだと、命は時として残酷な一面を覗かせるのだと。

 

 ならば、残された私たちに出来る事とは?

 

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 この限りある刻みを、丁寧に丁寧に、包み込む様に優しく、労わりながら、「今」を大事に生きる事だと私は想います。

 

 それが残された者たちへの、二人からの「メッセージ」だと私は想っています。

 

  

  令和四年2022年、4月29日金曜日、午後17時現在、私は日本に居ます。

 しかし、TVを付けると毎日ウクライナへの軍事侵攻のニュースが流れています。

 

 愛する家族を砲撃で亡くした方、愛する家族と突然生き別れになった方。見殺しにされる動物。

 

 筆舌に尽くせない程の苦しみ、悲しみだと思います。

 

 おばあちゃんの命、自殺で失われた命、侵攻によって失われた命、動物達の命、どちらをとっても大切な「命」です。

 

 「命」に差はありません。

 

  ですが

 

 「命」には「時間」が限られています。

 

 不幸にして、その時間が早まってしまった人達の分まで、私達は「今」を生きるべきでは無いでしょうか?

 

   生きたくても生きれなかった「命」の分まで生きていく、残された者の「責任」があると私は思っています。

 

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 あなたなら、どう生きますか?

 

 

 

 長々と、ご閲覧ありがとうございました。

 それでは、またの機会にお目に掛けましょう。